「時間は必ず流れていくものである」
これは普通に考えれば当たり前すぎるほどの事実である。
時間を止めることは誰にもできない。
僕自身について言えば、時間を止めたいと思ったことは一度もありません。
なぜなら、時間は決して止まらない、というその特性によって時間というものは残酷でもあるけれど、唯一の救いでもありえるからなのです。
なぜ、こんなことをうだうだと書く気になったかというと、「NHKアーカイブス NHK映像ファイル あの人に会いたい」という番組で、小説家の吉村昭さんが同じことを言っていたのを聞いたからです。
吉村昭さんは10代の始めのころ、肺を切り取る手術を受けたそうです。
そのころは全身麻酔ではなく局所麻酔で、肋骨をぼきんぼきんと切り取るたびに激痛が走る。
それで、ほとんどの人は「やめてくれ」とか「いっそ殺してくれ」とか叫ぶのだそうですが、吉村さんはそのとき何を思っていたのかというと、
時間は必ず流れていくものである。
だからこの苦痛の時間もいつかは過ぎて、手術台から降りられるときが必ず来るはずだ。
というのです。
中学1年とかそのくらいのころにその考えに至っていたというのがすごいですね。
僕がその考えにたどり着いたのがいつだったかなんて忘れましたが、時間は流れる、というのは大きな生きる救いであることは確かなのです。
時間は容赦なく流れ、人は老い、言ってみれば生まれた瞬間から死に向かっている。
そういう意味で、時間は残酷だと言えます。
が、時間が流れなくなってしまったら、それはそれ以上の苦しみであろうという気がします。
僕が常に楽天的で冷静で飄々としていられるのは、つまりこのある種の諦観によるものだと思われます。
最近、なぜだかあと半年の寿命と宣告されたら、みたいなドラマや映画が多いけれど、自分自身がそう言われたらどう思うかとふと考えました。
たぶん、ある意味ほっとすると思います。
ああ、あと半年頑張ればいいんだ、それで終わりだ、と。
たぶん、たいしてショックは受けない。
親や知人を悲しませるのは申し訳ないとは思うけれど。
残りの半年で何がしたいかって考えると、特に何も。
自分としては、今日死んで明日がなくてもそれでいいと思えるように努力はしているつもり。
それにそれほど執着する何かも持っていないし。
だから、あらためて何がしたいってこともない。
今までどおりにやって、半年たったら死ぬだけだなと思うのです。
言い方を変えれば、僕は今日の自分と、明日の自分はまったく別だと考えています。
ただ、明日の自分はどうしたって今日の自分を引き継いでしまうので、今日の自分は明日の自分に対する責任があって、それを果たすということがひとつの目標みたいなところがあります。
寿命があと半年と確実にわかってしまえば、その責任もだいぶ軽くなるわけで、そうなるとその日その日をちゃんと生きることに専念するかもしれません。
いずれにしろ、それほどひどく絶望することもないし、いきなり生き方を変えるような感動物語にもなりそうもありませんね。












